ワット・アトヴィア遺跡とは
About Wat Athvea Remains
アンコール・ワットを創建したスーリヤヴァルマン2世が造った寺院です。アンコール・ワットと同じ12世紀前半に建てられました。
ワット・アトヴィアはちょうどアンコール・ワットとトンレ・サップ湖の中間、それぞれに約12キロの距離に位置しています。
メコン川から続くトンレ・サップ川を北上し、トンレ・サップ湖を渡ってアンコール・ワットへ参拝する各地からの人々が、最初にたどり着いた寺院だったと言われており、休憩所の役割もあったようです。
かつて道路の整備もまだそれほどは進んでいなかった時代に、徒歩や牛車でアンコール・ワットまでの道のりは遠く、船を降りて中間となるワット・アトヴィアまででも3時間以上はかかったに違いありません。
寺院の名前は「トヴィア」=「扉」という意味に由来し、アンコール・ワットへの扉として重要な役割の寺院であったという説と、石碑に刻まれていた「アトヴィア」=「長い道のり」が、まさにアンコール・ワットまで長い道を歩く必要があったから、という説があるようです。
アンコール王朝のクメール文化には紙がなく、動物のなめし革や植物の葉を加工したものに文字を書いていました。
そのため、すでに記録は失われ、わずかに残る石碑の文字や中国の外交官や貿易商などによる記述によってアンコール時代の謎が少しずつ研究されていることが実情です。
このワット・アトヴィアについても、創建の目的や寺院の名前の由来など、多くの謎がまだ残されています。
現代のワット・アトヴィアでは、遺跡の横に仏教寺院のアトヴィア・パゴダと墓地が併設して造られており、生活の中の信仰の場として近隣の人々に親しまれています。
ワット・アトヴィアの歴史と見所
ワット・アトヴィアを創建したスーリヤヴァルマン2世はアンコール王朝18代目の王で、ヒンドゥー教寺院の建設に熱心だった人物です。
アンコール・ワット、トマノン、バンテアイ・サムレなども建てています。
アンコール王朝では、新しい王が即位すると前王よりも豪華な寺院を建立して権力を象徴する文化があり、隣国との戦争に次々勝利し領土を拡大していったスーリヤヴァルマン2世が、その偉大さを表すために大型寺院を次々に造ったのだと考えられます。
中でも最も有名なアンコール・ワットは、1113年に王が即位した後から約30年かけて建造されました。
その建設目的はスーリヤヴァルマン2世自身の霊廟とするためであり、また王がヒンドゥー教の最高神 ヴィシュヌと交信する儀式の場として、王の神格化を象徴する寺院にするためだったと言われています。
当時の王都の10分の1にあたる6万人が建設に携わったと推測され、この護国寺建設は国家の一大プロジェクトであったに違いありません。
ワット・アトヴィアの建造年は定かではありませんが、同じ建築様式から12世紀前半と言われ、アンコール・ワットの建造事業と並行して建造されたことがわかっています。
アンコール・ワットの中央祠堂は高さ65メートルもあり、神々が住むというメール山を模して造られました。
全部で5つの塔と3つの回廊があり、その周りを東西1,500メートル、南北1,300メートルの環濠で囲んでいる大規模な寺院です。
その回廊や塔門、壁のあらゆるところに、古代インド神話やヒンドゥー教の物語や植物の葉、つるや花をモチーフにしたレリーフが彫られており、クメール美術の傑作と称賛されています。
遺跡に通じる門
ヴィシュヌが祀られた寺院
ワット・アトヴィアの夕方
寺院はあまり例のない西向きに建てられ、ヒンドゥー教の最高神の一人、ヴィシュヌが祀られました。
ヒンドゥー教ではトリムールティ(三神一体)という考え方によって、宇宙の創造、維持、破壊・再生がブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3柱で表現されており、ヴィシュヌは世界の混沌や危機を救う守護者(維持者)です。
実力主義で常に内戦が続いていた当時にしては、スーリヤヴァルマン2世は長く在位についた王で、クメール王国をタイ中部、マレー半島、ベトナム南部までの広範囲に拡大した有力者でした。
しかし、次々に行われる寺院の建設や装飾にかかる労力や費用は相当なものであったことが推測され、国民は徴税や労働力の奉仕に疲弊していたに違いありません。
結果として在位中には全て完成できず、アンコール・ワットも、ワット・アトヴィアも未完のまま放置されました。
この時代、農業や商業が栄えた
スーリヤヴァルマン2世は強大な権力者
遺跡の外観の壁
その後もアンコール・ワットには長い歴史があります。
スーリヤヴァルマン2世の没後、数代の王を経てジャヤーヴァルマン7世が12世紀後半にアンコール・トムへ王都を遷都します。この時代はインフラ整備により農業や商業が栄え、国内は平穏で領土も最も広くなったアンコール王朝の最盛期です。
しかし、その後の後継者争いや近隣の王国発祥により再び戦争が頻発し、最後にはシャム(タイ)のアユタヤ王朝によって1431年にアンコール・トムは陥落し、幾多の戦乱によって首都もプノンペンに遷り、アンコール・ワットは忘れられていきます。
棟の天辺に円盤のようなものが
壊された外壁
地元の子供達がよく遊んでいます
16世紀半ばにアン・チェン1世がアンコール・ワットに再度注目し、建造に手を加えたのです。第一回廊北面などの未完成だった部分へ彫刻を施し、再びアンコール・ワットに光が当たるかのように見えました。
しかし彼の孫であるサター1世は内部のヴィシュヌ像などを取り払い、アンコール・ワットを仏教寺院へ改修してしまいます。
1632年に日本人の侍、森本右近太夫一房が訪れた時にもアンコール・ワットは仏像が安置された寺院で、森本は壁にその仏像への驚嘆と訪問について記すのです。
それは現代では、世界遺産への落書きと言われ話題になったことも記憶に新しいでしょう。
1887年カンボジアは仏領インドシナとなり、1907年にはアンコール地域の領土をシャムから奪い返すと、フランス極東学院がアンコール遺跡の修復・保存に着手しました。
休憩所の役割もあった遺跡
のどかな雰囲気
未完成のまま建設が終わった遺跡
しかし1979年に武装組織クメール・ルージュが強堅な造りのアンコール・ワットを本拠地に据えると、宗教的な象徴は共産主義勢力に標的にされ、アンコール・ワットの多くの仏像は破壊されたのです。
こうしてヴィシュヌ神に捧げられたヒンドゥー教寺院のアンコール・ワットは、長い歴史の中で何回も仏教やヒンドゥー教に改修されていき、破壊と修復、改修が繰り返されました。
苦難の歴史を重ねたアンコール・ワットに比べ、史実上は脚光を浴びることが少ないワット・アトヴィアですが、ここでもきっとヒンドゥー教の彫像が壊されて仏像と替えられたり、政治的組織により宗教の象徴が破壊されたこともあったのではないでしょうか。
写真のとうり、少し傾いている
寺院の名前は「トヴィア」=「扉」
1部は補強されている状態
ワット・アトヴィアは、アンコール遺跡群の中では数少ない西向きに建てられた寺院で、アンコール・ワットと同じようにヴィシュヌ神へ捧げられたと考えられています。
シェムリアップ市街から車で5分ほどの場所に位置し、ワット・アトヴィアとシェムリアップを結ぶ緑豊かでのどかな道を、馬に乗って散策するアクティビティも人気です。
寺院は中央祠堂を囲むように四隅に経蔵があり、アンコール王朝の寺院では他に例を見ない構成になっています。
アンコール・ワットと同じ12世紀前半に建築されており、その主な材料は同様にラテライトと砂岩です。建物の一部は破損していますが、1960年代初頭に修復された周壁や塔門・まぐさ石のレリーフを間近で見ることができます。
また、アンコール・ワットのデヴァターに良く似た彫刻も見どころの1つです。
スーリヤヴァルマン2世の建造物
地物の方もよく訪れます
日中はかなり暑くなります
ワット・アトヴィアでは全部で4体見ることができますが、壁の一部はレリーフが途中で終わっています。
本来はもっと多くのデヴァターや壁の装飾を予定したところ、何らかの理由によって未完成のまま建設が終わったということがわかります。
ワット・アトヴィアのデヴァターは比較的保存状態がよく、周囲のレリーフからくっきりと浮き彫りになっています。
デヴァターの顔と胸は、アンコール・ワットのデヴァターと同じように磨かれたように光っていますが、大勢の人々が触って磨かれただけではなく、苔や劣化から保護するために石に加工をしたからという説もあるようです。
ワット・アトヴィア遺跡の場所(Google MAP)
シェムリアップ市街から約6キロ、アンコール・ワットとトンレ・サップ湖との中間に位置するワット・アトヴィアは、現代の仏教寺院アトヴィア・パゴダに併設しています。
アトヴィア・パゴダは葬式や火葬、結婚式などの儀式の場はもちろん、普段の祈りの場としても人々に利用されていて、遺跡内にも寺院の参拝客や周辺に住んでいる人が来ています。
観光スポットとしてはあまりポピュラーではなく遺跡見学者の数はまばらですが、アンコール・パスの検札は実施されているので、ホテルの部屋にパスを忘れないよう注意してください。