

シェムリアップ中心からプノンペン方面へ170キロ、車で約3時間離れた場所に、アンコール・ワットより500年前も前に造られていた王都の遺跡があります。
それがアンコール王朝以前の古代クメール人が残したサンボー・プレイ・クックです。
シェムリアップとプノンペンのちょうど中間あたりの森の中に、東西6キロ、南北4キロ以上の広い範囲にサンボー・プレイ・クック遺跡群の60以上の建物が眠っており、特にプラサート・サンボー、プラサートサート・タオ、プラサート・ジェイ・ポアンの3つの祠堂が代表的です。
さらにこれら遺跡群の西側2キロにわたって王都の痕跡も見られ、今なお調査が行われています。
サンボー・プレイ・クック遺跡群の建物はカンボジア初の寺院建築と言われており、その創建年代は7世紀~9世紀と推測されています。
それぞれの建物はレンガを積み重ねた構造であることが特徴で、その壁には彫刻も施されていますが、そのレリーフに刻まれた姿は神なのか王であるのかは未だ謎のままです。
また、カンボジア国内ではここでしか見ることができない八角形の祠堂も見どころの1つと言えるでしょう。
現在では建物の頭頂部は崩落してなくなってしまいましたが、建築当時の技術では、レンガで屋根まで造ることはたいへんな苦労であったに違いありません。
ジャヤーヴァルマン2世がプノン・クーレン山で即位式を行った802年に、アンコール王朝はスタートしました。
それ以前のカンボジアの文化的な歴史は、わずかに残された碑文や中国の書物によって1世紀頃から古代インド文化の影響を受けた扶南(フナン)という国があったことがわかっています。
現在「扶南」と呼ばれる名前は3世紀頃に残された中国の記述に起因しており、当時の国や王の名前を実際には何と呼んでいたかは不明です。
1世紀~6世紀にかけて扶南国は栄え、東南アジア最長のメコン川下流にあたる現在のベトナム南部~カンボジアと、タイへ流れるチャオプラヤー川にかけて広い領土を持っていました。
その川や海を利用した水上流通によりインドや中国などから人や文化も入り、貿易国としても栄えていた国だと考えられています。
また、扶南の民族はクメール人ではなく、台湾から東南アジアや太平洋の島々、マダガスカルにまで広がった、アウストロネシア語族であったそうです。
現存する扶南国の遺跡で最も有名なものは、ベトナム南部のアンジャン省に残るオケオ遺跡群でしょう。
ここは中国・インド・ヨーロッパの貿易港として栄えた港町だったことが解明されており、寺院や住居などの建物の痕跡や、古代ローマのメダルや中国の仏像、ヒンドゥー教の神々が記されたお札などが発見されています。
なお、カンボジア国内では、南部のタケオ州にあるアンコール・ボレイとプノン・ダに扶南国の歴史を記す碑文や彫像、ヒンドゥー教の寺院遺跡が残されています。
西暦550年頃になると、扶南に支配されていた現在のラオス南部からカンボジア東部にかけて住む古代クメール人が、扶南国を相手に度々戦争を行いました。
そしてついに613年にはメコン川上流に真臘(チェンラ)という国が発足し、今までとは逆に扶南国が真臘国の属国となったのです。それは628年まで続きました。
その真臘国の初代王、イシャーナヴァルマン1世が613年に新しい王都を築きました。
その首都である「イシャナーブラ」が、後に発掘されサンボー・プレイ・クックと呼ばれるようになったのです。
イシャーナヴァルマン1世の後の王たちもこの地に王都を広げ、7世紀~9世紀にかけて造られた数々の建物の遺跡が残っています。
扶南で栄えた水上貿易に影響を受けた真臘も、中国や西洋との交流があり、当時のサンボー・プレイ・クックには約2万軒もの家が並ぶ栄えた王都であったそうです。
広大な領土を手に入れた真臘国ですが、681年にジャヤーヴァルマン1世が亡くなると王国の統治は不安定になり、国内でいくつもの内戦が起こります。
そして706年頃には、真臘は「陸真臘」「水真臘」の北と南に分裂するのです。
内戦による分裂で弱体化した真臘国は、インドネシア・ジャワで栄えていたシャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤ王国に、774年頃から支配されるようになります。
このシャイレーンドラ朝は、後に世界最大級の仏教寺院 ボロブドゥールを造り上げた王朝です。
その後、真臘は東南アジアで勢力を強めるシャレーインドラ朝の属国となって消え去り、ついには802年ジャヤーヴァルマン2世がプノン・クーレンで挙げた即位式によって、クメール王国が誕生したのです。
シェムリアップとプノンペンの中間あたりに、サンボー・プレイ・クック遺跡群はあります。
かつては真臘国の、イシャナーブラと呼ばれていた首都の遺跡がある範囲は広く、建物が集中する寺院区域と王都の痕跡が残る区域に分かれていますが、主な見どころはその寺院区です。
森に埋もれた遺跡
神仏を祀った祠堂
シンハの像
森の中に散らばる建物は、7世紀~9世紀に造られたカンボジア初の寺院建築で、その用途はまだ不明ですが神仏を祀った祠堂ではないかと考えられています。
なお、真臘国の前の扶南国では貿易によってインドの文化が多く入ってきていたことや、サンボー・プレイ・クックで発見された神の彫像から推察し、真臘国ではヒンドゥー教が信仰されていたようです。
遺跡の森の中には今でも人々が暮らしていて、7世紀の古い建物と建物の間に高床式の家やテントを張り質素な生活をしています。
それはまるでこの森全体が時間を止めてしまったかのような不思議な感覚です。
建物の場所によってアルファベットで細かくグループ分けされていますが、見学ができる場所は限られた4つほどのメインのグループです。
ここに残された遺跡のほとんどがレンガを積み上げて造られており、中には大きな樹木の成長に巻き込まれている建物もあります。
駐車場から入って奥のSグループエリアでは、真臘国の初代王イシャーナヴァルマン1世に関わる最古の碑文が発見されたそうです。
ここには6つの建物がありますが、中でも「プラサット・イェイポアン」と呼ばれる祠堂は見逃せません。
プラサット・イェイポアンは八角形の形をしたレンガ造りの祠堂です。その外側の壁にはフライング・パレス(空飛ぶ宮殿)と呼ばれているレリーフがあります。
美しいリンガ
塔の中のデバター
塔の中は光が降り注ぐ
経年劣化でモチーフがよく読み取れない部分もありますが、下方にはライオンのような動物が支える大きな宮殿の上部に、インドの彫刻を思わせる人物が座っています。
この宮殿にいる人物は誰を表しているのか、なぜ祠堂を八角形に造ったのかはまだ解明されていません。
なお、数多く発見されているクメール人の遺跡の中でも、八角形の祠堂はサンボー・プレイ・クック遺跡群だけに見られる特徴です。
Sグループ隣のCグループエリアに向かう途中には、地面に無造作に置かれた大きなまぐさ石(リンテル)を間近に見ることができます。
まぐさ石とは柱と柱の上部に水平に渡すブロックで、それがあることで上部の重さやバランスを計ることができるのです。
そのまぐさ石にも神話の登場人物と思われるモチーフが彫られていますが、アンコール王朝のそれとは異なり装飾は細かくはありません。
Cグループではプラサット・タオのライオン像が有名です。レンガ造りの祠堂の前に、左右1頭づつ口を開けたライオン像が建っています。
たてがみもくっきりと彫られた彫像はカンボジア最古のシンハ像と呼ばれ、寺院の名前もライオン寺院を意味しています。
ライオンはインドでは百獣の王として仏典やレリーフに使われていたため、古代インドの影響を受けた真臘国でも何らかの象徴に使われたと推測されますが、その目的は定かではありません。ただしアンコール王朝の遺跡では、このような狛犬のように飾られたライオン像は今のところは他に例を見ないことも事実です。
北に当たるNグループではプラサット・サンボーが一番の見どころです。
レンガ造りの祠堂
最古の碑文が発見された
八角形の祠堂
この祠堂からはヒンドゥー教の三大最高神のシヴァとヴィシュヌが合体しているというハリハラと、シヴァの妻・ウマーの化身であるドウルガーの彫像が発見されました。現在オリジナルはプノンペンの国立博物館に収納されており、祠堂の中にはその複製が飾られています。
ハリハラは左半身がビシュヌ、右半身がシバの姿で、創造と破壊の両方を意味する神ですが、ここで見れるハリハラ像は左右が違う人物であるとは想像がしにくく、まるで王の彫像のようにも見えます。
闘いの神であるドウルガー像は頭部が破損で失われていますが、美しい女神像であったことが容易に推測できる曲線美です。
そのほかにもタ・プローム遺跡を思わせる、木が絡みついた祠堂 プラサット・チュレイや、地面に点在するヨニやリンガのモチーフ、まぐさ石や塔門の上にあったと思われるレリーフなどが多く残されています。
サンボー・プレイ・クックの森には観光のために寺院を紹介する看板はなく、また未解明な部分が多い古代文化の遺跡であることから、その建物の由来などを記載した案内板もほとんどありません。
森の中に点在するいくつもの建物の中からお目当ての祠堂を探すには、ガイドと同行するべきでしょう。
ガイド付きツアーが最も安心でわかりやすくおすすめですが、遺跡の森には現地の子どもたちがいてわずかなチップで遺跡までの道を案内しています。
ツアーの魅力と見所:
サンボー・プレイ・クックはプレアンコール時代7世紀初頭に創建された遺跡です。
アンコール遺跡よりもその歴史は古いため、保存状態はアンコール遺跡ほどよくはないですが、東西6km南北4kmとかなり大規模で迫力のある遺跡群です。
点在する各遺跡に特定の名は付けられておらず、北にNグループ、中央がCグループ、そして南側がSグループとなっており、N1やC5などのように呼称されています。
アンコール・ワットやアンコール・トムからプノンペン方面へ車で約3時間、170キロ以上も離れた森の中に位置する遺跡群です。
祠堂の遺跡が多く残る寺院区域と、王都の後を残す都城遺跡区域とに広く分かれていて、観光のメインとなるのは寺院区域です。
寺院区域の森の中には現地の人々も暮らしていますが、日中でもひっそりとしている箇所が多く、広大なエリアには立ち入り禁止の場所もまだ残されています。
地雷や強盗などのトラブルを避けるために、単独行動は避け、日中の明るい時間に訪問しましょう。
また森の中には案内板がほとんどないため、ガイドと同行することをお勧めします。