バンテアイ・チュマールとは
About Banteay Chhmar Remains
アンコール王朝に最大の繁栄をもたらしたと言われるジャヤーヴァルマン7世が創建した寺院です。この王はアンコール王朝初の仏教徒であったため、バンテアイ・チュマールにも四面仏や千手観音のレリーフが残っています。
ェムリアップから車で3時間位の場所にあり、タイとの国境もすぐ近くです。ここは11世紀~12世紀にかけてスーリヤヴァルマン1世が造ったピマーイ寺院へ続く、アンコールからの王道の途中に位置しており、最盛期には15~20万人が住んでいたと言われています。
クメールの古道の終点となるピマーイ寺院は、現在はタイの国内となります。アンコール王朝の遺跡を保護する目的でピマーイ歴史公園に制定され、現存する遺跡はジャヤーヴァルマン7世によってヒンドゥー教から大乗仏教の寺院へ改修されたものです。
バンテアイ・チュマールは、ジャヤーヴァルマン7世が亡くなった王子のために造った寺院と言われており、東西約700メートル、南北約600メートルの広大な寺院です。その側にはこの寺院を十字に囲むよう小規模な寺院が造られ、東には大型のバライもあり、現在は一帯が遺跡群となっています。
寺院内部は経年劣化による崩壊に加え、1990年代の組織的な盗賊団による盗掘で寺院の装飾ははぎ取られ無残な姿をさらしていますが、それでも今なお残る数々の美しいレリーフは必見です。バンテアイ・チュマール寺院内は崩れた建物の石塊があちこちに散乱しており、足元には注意が必要ですが、周囲の寺院やバライの側には相当な数の地雷が残っているため、一般の観光客が気軽に訪問できる場所ではありません。タイ国境にも近く治安も悪いため、必ず信頼ができるガイドと同行するようにしてください。
バンテアイ・チュマールの歴史と見所
かねてからクメール王国と領土争いを続けていたベトナム中部沿海地方のチャンパ王国が、アンコールを占領したのは1177年のことです。しかし1181年に即位したジャヤーヴァルマン7世によって、アンコール王朝は空前の繁栄を迎え、1190年にはアンコールがチャンパを支配し、現在のタイからベトナムのあたりまでインドシナ半島の大部分を領土にします。
ジャヤーヴァルマン7世の偉業は高い軍事力だけではありませんでした。アンコール・トムを完成させ、王都から郊外まで続く道を四方に伸ばし、道路の整備と一定の間隔で宿駅を設置して国土のインフラ整備を行います。そればかりか大乗仏教の寺院や僧院、施療院や病院も多数造りました。彼が統治したアンコール王朝は、平安と繁栄の時代であったと言えるでしょう。
バンテアイ・チュマールも、アンコール・トムから北西のピマーイにかけて続く約300キロの王道の途中に位置する灌漑都市でした。中央寺院を中心にいくつかの寺とバライによって造られ、大勢の人が住んでいたと言われています。
ジャヤーヴァルマン7世が造ったアンコール・トムのバイヨン寺院のように、バンテアイ・チュマールも大乗仏教とヒンドゥー教の神々がミックスされた装飾を持つ寺院です。もともとどちらの宗教も古代インド神話をベースにしているため、信仰の象徴や神々、神話に似たところが多数あり、ジャヤーヴァルマン7世以前のアンコール王朝は長らくヒンドゥー教を信仰していたため、国民のためにそのモチーフも多用したのではないかと推測されます。
1990年代、この寺院は組織的な盗掘集団による大規模な窃盗被害に度々あっています。当時はできたばかりのカンボジア王国内が連立政権によって政情が不安定となり、貧困にも悩まされていた時代でした。 バンテアイ・チュマールだけではなく、郊外の密林の中で人目につかない遺跡はほとんどが盗掘被害にあっているそうです。削り取られたレリーフや彫像は、クメールの美術品として外国に売られてしまいました。 寺院の内部には一部修復の手が加えられたとはいえ、現在も盗掘の跡が手つかずに残り、切り取られた石塊が瓦礫となって足元に散乱しています。破壊被害が無残な姿ですが、残されたレリーフは見ごたえのあるものばかりです。
美しいデバター
戦の様子のレリーフ
千手観音のレリーフ
ジャヤーヴァルマン7世は、戦で亡くなった息子と4人の将軍を追悼する菩提寺としてバンテアイ・チュマールを建立したそうです。それは東西約700メートル、南北約600メートルもの広さで、約65メートルもの幅がある環濠に囲まれています。
この中央寺院を中心に一帯には小規模な寺院が8つあり、更にその外側には都の外壁となるような環濠と、東にはバライが残っています。
都全体は2キロ四方の広さであったそうです。町の痕跡は残っていませんが、当時はクメール王国北部の拠点として賑わう都であったでしょう。
アンコールとピマーイを結ぶ王道の途中に造られたことは、バンテアイ・チュマールがジャヤーヴァルマン7世にとって大切な寺院であったことを表しています。
中央寺院内は崩壊が激しく、地面に転がっている瓦礫が不安定な場所も多い遺跡です。盗掘によって多くの装飾品が奪われましたが、今なお残る彫刻は美しく精巧で目を奪われるでしょう。くれぐれも足元に気を付けて見学をしてください。
バンテアイ・チュマールの回廊は、東西約800メートル、南北約600メートルと、アンコール最大級の大きさです。その外壁には各所にレリーフが残り、寺院の見どころとなっています。
第一回廊の内側にはジャヤーヴァルマン7世がチャンパ軍と戦をしている場面や、象を率いた軍隊の行進など、当時の様子がわかる彫刻が多数残っています。
ジャヤーヴァルマン7世が阿修羅と戦っている姿は王自身を神格化したものでしょう。また若い勇者と怪物が戦うレリーフは、ジャヤーヴァルマン7世の亡くなった王子とチャンパ軍の戦士ではないかと言われています。
他にも王と王妃、女官たちの姿や王宮内の様子を描いたレリーフもあり、12~13世紀の生活をしるす貴重な資料です。
怪鳥、ガルーダの像
ヴィシュヌ神
ブラフマー神のレリーフ
バンテアイ・チュマールで最も有名なレリーフの1つ、千手観音のレリーフは西塔門近くの第一回廊外側にあります。
その姿は現代の仏教で描かれる千手観音像とは異なり、体の前で合掌する姿ではないので、たくさんの手が鳥の羽のように見えるかもしれません。このレリーフはジャヤーヴァルマン7世が仏教徒であったことを表す最もわかりやすい象徴です。
東塔門外側のテラスには、ヴィシュヌ神が利用するという怪鳥、ガルーダの像が状態もよく残されています。このガルーダも天敵のナーガを踏みつけているようです。
東塔門の内側には、バラモン僧がブラフマー神と彼の聖鳥ハンサにハープを弾いて音楽を奉納する姿のレリーフがあります。
ハンサはブラフマー神の乗り物と言われる白いガチョウです。現存するブラフマー神のレリーフは数が少なく、たいへん貴重なレリーフです。
寺院内部の中央付近には、アンコール・トムのバイヨン寺院のような四面仏を乗せた祠堂があります。バンテアイ・チュマールのすぐ南に位置するプラサット・タ・プロームにも、保存状態が良く写真映えする四面仏の塔が残っています。
寺院内部の中央付近には、アンコール・トムのバイヨン寺院のような四面仏を乗せた祠堂があります。バンテアイ・チュマールのすぐ南に位置するプラサット・タ・プロームにも、保存状態が良く写真映えする四面仏の塔が残っています。
郊外の密林に隠された遺跡だからこそ残る貴重なレリーフは見ごたえがありますが、崩壊がひどく足場が不安定で、寺院内部が迷路のようになってしまっていること、寺院の外には手つかずの地雷が多数残っていることから、ガイド付きツアーへの参加が安心です。
バンテアイチュマールを見学出来るツアーのご紹介
バンテアイトアップ+バンテアイチュマール+ターモアン+タークロバイ
【プライベート・貸切ツアー】ツアーの魅力と見所:
バンテアイトアップ、バンテアイチュマール、ターモアン、タークロバイの4ヵ所の遺跡を巡る盛りだくさんのツアーです。
シェムリアップから西へ約100㎞。そこからさらに北へ進んで行くとあるバンテアイトアップ、バンテアイチュマール。さらに北側、カンボジアータイ国境間にあるのがターモアン、タークロバイです。
バンテアイ・チュマールは12世紀に建てられた仏教寺院で、ジャヤヴァルマン七世が自信の子どもの死を弔うために建てられたといわれています。回廊には長大なレリーフがあり、千手観音のレリーフや、ジャヤヴァルマン七世と阿修羅の戦いなどが描かれています。
バンテアイ・チュマールの場所(Google MAP)
アンコール・ワットから南西にあたり、タイとの国境近くに位置する遺跡です。シェムリアップから約170キロ、車では3時間位の郊外にあります。 遺跡発見後はバンテアイ・チュマールまでの道路も整備され、周囲の密林も開かれましたが、今なお残る地雷の危険と、タイとカンボジアの関係が再び悪化することは絶対にない、とは言えない政情下では、一般の観光客が単独で観光に行ける場所ではないと言えるでしょう。 個人旅行は避け、信頼できるガイドと同行するツアーに参加することをおすすめします。