カンボジア王国について
About Kingdom of Cambodia
カンボジア王国は東はベトナム、西はタイ、南はタイに湾、北はラオスに面しています。英語表記はKingdom of Cambodia、通称カンボジアと呼ばれ、東南アジアインドシナ半島の立憲君主制国家です。ASEAN加盟国であり、通貨はリエル。人口1,513万人の発展途上国、首都はプノンペンです。 ベトナム戦争の最中、1970年にカンボジア王国が倒れてから勃発したカンボジア内戦(ポル・ポト政権)を経て、1993年に誕生しました。国民の90%以上がクメール語(カンボジア語)を話し、仏教(上座部仏教)を信仰しています。世界的に有名なアンコールワット(シェムリアップ付近)を有し、観光立国である他、インドシナ半島の中間に位置する首都プノンペンでは極めて急速に経済が発展しています。
プノンペン(カンボジアの首都)
プノンペン(クメール語:、英語:Phnom Penh)は、カンボジアの首都であり、行政・文化・経済の中心地として国家を支えています。
人口は約190万人、実質GDP成長率6.9%と他東南アジア諸国と比較しても著しい経済成長を続けています。
メコン、トンレサップ、バサックの3つの川が交わる地に広がる街の中には、数多くの仏教寺院とフランス統治時代の面影が残る洋館が混在し、ベトナム・ホーチミンに次ぐ〝東洋のパリ〟さらには〝インドシナのオアシス〟としてその名を馳せています。
15世紀前半から王都を転々としていたカンボジアの中で、王都がプノンペンに遷都されたのは、1866年の事でした。
後のシアヌーク政権時代に独立を果たした、カンボジアの一大都市として繁栄を続けたプノンペンでしたが、その平和な様子は長く続きませんでした。
その原因となったのが、1975年の4月から始まった社会主義・ポルポト政権(カンボジア苦難の歴史)です。
ポルポト軍の介入で全ての住民が市外へと追い出され、繁栄の象徴だった街はゴーストタウンと化しました。さらに続いた、政府軍からの弾圧、内戦で街は荒廃し、徹底的に長い沈黙が強いられました。
しかし、その後息を吹き返すかのように復興が進んだ王都プノンペンは、年々近代化や街のシステム整備が進み、活気に満ち溢れた都らしい姿を取り戻しています。
特に、労働年齢人口の増加や著しい経済成長に目をつけた外資の進出はプノンペンの近代化を加速させ、高層マンションや商業施設の建設が急ピッチで進められています。
この街の主な観光資源は、ポルポト政権時の悲劇を後世に伝える二つの施設です。
トゥールスレン博物館 (Tuol Sleng Genocide Museum)
ポルポト政権下の際に徹底された、弾圧や虐殺、拷問の狂気を風化させることなく今に伝える博物館です。
当時の政権は、「革命に学問は不要」という方針の下、知識人や宗教関係者をはじめ罪のない人々を次々とリセ(学校)に収容し拷問を繰り返しました。
驚くべき事は、2万人近い収容者の中で生存したのは8名という事実です。
博物館には、当時使われた拷問器具や独房、犠牲者の写真などが現代人に向けた教育のために残されています。
キリング フィールド(Choeung Ek Genocidal Center Killing Fields Of Pol Pot)
ポルポト政権下に、収容所(トゥールスレン)から市民が輸送され、大量虐殺が行われた刑場です。
そんな悲しい遺産は、市内中心部からトゥクトゥクで30分、緑豊かな湿地の近くに保管されています。
施設内には当時遺体が埋められた丘状のくぼみがあり、不自然に連続している丘からは今でも骨や歯が出てくる事があるそうです。
他にも収容者の悲鳴や叫び声を隠すために革命歌を流したスピーカーがぶら下げられていたマジックツリーなどもあり、当時の生々しい現実を学ぶ事となります。
近代化進む街並みの中で悲しい遺産と古代クメールから続く伝統の文化を観れる、観光都市プノンペン。
楽しむだけでなく、人類の愚かさや憤りなどを感じながら、平和の大切さを学ぶ、これもまたカンボジア観光の唯一無二の魅力です。
シェムリアップ(アンコールワット遺跡群の街)
シェムリアップは、首都プノンペンから北西へ約300Kmのトンレサップ湖北側にある小さな観光都市。
そんな小さな街がアンコール遺跡群を観光する際の拠点となります。
人口は約20万人、カンボジア第5位の規模を誇り、莫大な観光収入で国家を支える街とされています。
シェムリアップ一帯は、かつて何世紀もにわたり、シャム(現在のタイ)の属国でした。
そのためSiem Reapは直訳すると「シャム人敗戦の地」となり、クメール人がアユタヤ王朝の軍隊に勝利した事をちなんでこの名がつけられているという歴史があります。
また、この街は歴代の王族たちがその力を競い合うかのように都を築いた地であり、当時の城の数々が今なおアンコール遺跡群として保存されています。
しかし1975年から始まったポルポト政権、カンボジアの内戦ではこの街も例外とはなりませんでした。
当時傷つけられたシェムリアップの街とアンコール遺跡郡は、現在に至るまで多くの修復工事が行われ、着々と復興を遂げてきています。
政府が外国人観光客の入国を認めるようになると、多くの観光客がアンコール観光の拠点としてシェムリアップに滞在するようになり、安定的な収入を得るようになりました。
その影響もあり、ホテルやレストランの建築、改築が進み、街の様相も毎年急激な変化を見せ、観光都市として年々発展しています。
しかしながら、この街の魅力はアンコール遺跡群だけに限りません。
トンレサップ湖
市内から車で約30分の場所にある東南アジア最大の湖。〝伸縮する湖〟とも呼ばれ、乾期と雨季で異なった姿を見せます。
シェムリアップは、昔から魚介類が有名な街でもあり、トンレサップ湖で捕れた新鮮な魚介類はカンボジア随一とも称され、多くの人々から愛されています。
また、雨季には琵琶湖の10倍以上の規模になるトンレサップ湖には、古くから水上生活集落が存在しています。
未だ100万人以上が生活していると言われている水上集落には、水上の学校、病院や警察等の公共施設も存在し、巨大な街が形成されています。
シェムリアップは、観光都市として開発進む街と、その街を覆う神秘の遺跡群、世界最大の水上集落など、非日常的な光景を目にする事ができる街であり、カンボジア観光において絶対に外す事のできない街です。
アンコールワットだけがカンボジアじゃない。そんな事を頭に入れ、この街へ旅に出ると、よりカンボジアへの理解が深まる旅となる事でしょう。
シアヌークビル
シアヌークビル(クメール語: 英語: Sihanoukville)は、プノンペンから南西に約200Km、シェムリアップからは、南に約500Kmに位置する南部港湾都市であり、カンボジア随一のビーチリゾートとして知られています。
人口は約15万人、別名コンポン・ソム(Kampong Saom)とも呼ばれているこの港街は、1964年に開発が始まり、当初はカンボジア唯一の国際港湾都市というだけでした。
その後も港湾都市として開発が進められる予定でしたが、内戦の影響で開発は止まり、その結果手付かずの大自然が残り、現在のビーチリゾートへと変化しました。
ビーチリゾートとしての観光価値はとても高く、透明度の高いマリンブルーの海、10Km以上続く白砂のビーチ、点在するダイビングスポットやリゾートアイランドなどを有しています。
2016年時の年間観光客数は240万人を誇り、タイ国境の町コッコンからの国道整備などの波を受け、旅行者が激増、カンボジアで最もホットな街とも言われています。
さらにシアヌークビルは、まだ開発が尽くされていない事から、リゾート感とローカル感を同時に味わう事ができる街としてその人気に拍車をかけています。
シアヌークビルの街は主に3つに分かれており、ビーチ周辺のエリア、港湾エリア、丘陵地を登った中心エリアとなっています。
ビーチエリアには最も賑わいをみせるセレンディピティビーチをはじめとした5つのビーチがあり、それぞれ違った雰囲気を楽しむことができます。
また、高速船で40分の場所にロン島、ロン・サムレム島の2つのリゾートアイランドが、中心エリアには24時間営業のカジノがあり、滞在中に飽きを感じる事はない事でしょう。
ビーチで有名なシアヌークビルですが、それだけではない魅力もあります。
ボーコー国立公園
もしもシアヌークビルや周辺の離島に飽きてしまったなんていった方には、車で約2時間の場所に位置するボーコー国立公園もおすすめスポットです。
フランス植民地時代(1950年-60年頃)に多くのフランス人が避暑地として訪れたこの地は、壮大な景色と大自然、植民地時代から残されたゴーストタウンが混在するとても珍しい国立公園です。
内戦時代に廃墟と化したカジノ、教会や病院は、山頂付近に点在しており、それらの廃墟群から見る絶景は一見の価値ありと言われています。
また、ソカホテルグループという大手ホテルグループがボーコー国立公園に目をつけたことから、急ピッチでリゾート開発が進められており、【タンソワボーコーハイランドリゾート】が山頂で開業、避暑地リゾートとしてますます注目が集められています。
シェムリアップ、プノンペンばかり注目されるカンボジア観光ですが、リゾート感とローカル感が混在するビーチリゾート(シアヌークビル)や廃墟とともにリゾートホテルが建つ避暑地(ボーコー国立公園)に訪れる事で一味違うカンボジアの魅力を観る事ができる事でしょう。