画像出典:Wikipedia
ミャンマーの国家顧問であるアウンサンスーチーは世界的にも有名な指導者です。幾度もの自宅軟禁にも屈せず、国の民主化に向けて精力的に活動しています。
近年では、アウンサンスーチーの対応に威厳を唱える国も出てきました。アウンサンスーチーとは一体どんな人物なのか詳しく説明していきます。
独立運動家を家系に持つアウンサンスーチーの生い立ち
アウンサンスーチーの父であるアウンサンは「ビルマ建国の父」とも呼ばれた人です。長く植民地化されていたビルマ(現在のミャンマー)の独立運動を主導した人物としても知られています。アウンサンの生家も独立運動家でした。
代々続く家系であるアウンサンスーチーの生い立ちを見ていきましょう。
学生時代はいくつもの学校に通う
アウンサンスーチーは1945年6月、第二次世界大戦の終戦間近に生まれました。その2年後には父であるアウンサンは暗殺されてしまいます。母キンチーと2人の兄とともに生活したアウンサンスーチーは厳しい教育を受けました。
教育に熱心な母のもと、聖フランシス修道会学校へ行き、メソジスト英語学校に通います。このメソジスト英語学校は当時のビルまでトップクラスの学校です。やがてキンチーはインド駐在大使とネパール特命全権大使に着任したため、インドのニューデリーへ移り住みます。ここではキリスト・メリー修道会学校へ通いました。
卒業後の1964~1967年は、イギリスのオックスフォード大学へ進学します。インド滞在中、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーと親交があった関係もあり、大学では哲学や政治経済について学びました。
ニューヨーク在住をきっかけに訪れた転機
大学卒業後は、友達とニューヨークへ移り住みます。ニューヨークでは、ニューヨーク大学院へさらなる勉学のために入学。国際関係論を専攻しました。さらに在学中は国連事務局の行政財政委員会で書記官補も勤めました。
このとき出会ったのが、のちの夫となるマイケル・アリスです。マイケルとの結婚を機に国連事務局を退社し専業主婦となりました。2人の息子に恵まれたアウンサンスーチーは、研究を重ねるため再度オックスフォード大学へ通い始めました。
オックスフォード大学では、ビルマ文学やナショナリズム、父であるアウンサンの研究をするために日本語の取得も果たします。日本へは1985年に約9ヵ月滞在し、アウンサンに関する聞き取りや資料館に出向き調査したといわれています。
母国に戻り民主化運動に向けて活動
オックスフォードで暮らしていたアウンサンスーチーですが、母の危篤のためビルマに戻ったのが1988年その頃ビルマでは反政府運動が盛んでした。独裁政治が続いており国は混乱。アウンサンスーチーはそんな情勢を見て、民主化運動に向けて活動を開始しました。
シュエンダゴン・パゴダ前での演説は50万人もの人が集まりました。しかしこの運動を快く思っていない政府は、民主化運動を弾圧。多くの犠牲者が出ました。
アウンサンスーチーは、選挙に立候補し国民民主連盟(NLD)の書記長に就任します。国民に影響力のあるアウンサンスーチーに対し政府はおもしろくありません。
自宅軟禁し、さらにはNLDの書記長も解任させました。さらに自由を与える代わりに国外退去を言い渡した政府に対し、アウンサンスーチーは断固拒否したといわれています。
軍事政権から何度も自宅軟禁を受けたアウンサンスーチー
アウンサンスーチーが初めて自宅軟禁されたのが1989年7月。解放されたのは1995年です。解放後も政府はアウンサンスーチーの行動をチェックしました。党大会を計画するも国会議員を拘束し弾圧します。さらにヤンゴンから外への移動も禁止しました。
アウンサンスーチーはビルマに戻ってからというもの、家族とは離ればなれに暮らしていました。夫が癌を発症したとき、夫はビルマ入国を要求していましたが政府に拒否されてしまいます。1999年、夫が死亡したときアウンサンスーチーは出国すらできなかったのです。
その後、幾度と拘束され2000年には再度自宅軟禁されました。2年後に解除されたときは、国民から熱狂的な歓迎を受けたそうです。拘束・軟禁されても屈しなかったアウンサンスーチー。政治活動を精力的に行うも、2003年に3度目の軟禁をされました。解除されたのは2010年でした。
世界各国から名誉ある賞を受賞したアウンサンスーチー
アウンサンスーチーの献身的な活動は、世界中が注目していました。その証拠に各国で名誉ある賞を受賞しています。一部ですがどんな受賞をしたのか紹介します。
受賞日 | 名称 |
1990年10月12日 | トロルフ・ラフト財団からトロルフ・ラフト人権賞 |
1991年10月14日 | ノーベル平和賞 |
2007年10月 | カナダ名誉市民 |
2012年1月13日 | フランス大統領よりレジオンドヌール勲章コマンドゥールを授与 |
2012年1月25日 | パキスタン大統領よりベナジル・ブット賞を授与 |
国際支援のもと、アウンサンスーチーは政治活動を再開
アウンサンスーチーの拘束や軟禁には、世界中から批判が集まっていました。2009年には国家転覆防御法に違反したとして起訴され刑務所に入っていたアウンサンスーチー。この事件に著名人も反対し開放を求める共同声明を発表しました。
そのなかには、ニコール・キッドマン、デビッド・ベッカムなど世界的にも影響力のある人たちです。このおかげで軟禁も解除され、自由のみとなりました。
世界各地で訪問し演説や対談を行う
拘束・軟禁中に数々の賞や博士号を授与したアウンサンスーチー。解除後は各国を周り受賞演説や会談を行いました。
2011年にはインド、ヨーロッパ各国で演説。さらに2013年にはソウル大学校名誉教育学博士を授与したこともあり、仁川広域市長との会談も果たします。この際、慰安婦問題について語り合い、日本の姿勢を批判したことでも知られています。
同年には27年ぶりに来日し、ミャンマーへの支援を呼びかけ政府要人と会談を行いました。イタリアにも訪問し、ローマ教皇と面会。20年間受け取ることのできなかったローマ名誉市民の称号に関する記念式典が、ローマ市庁舎で開かれています。
憲法上、大統領就任ができないアウンサンスーチーは事実上のトップに
2015年に実施された総選挙で、アウンサンスーチー率いるNLDが勝利しました。これによりアウンサンスーチーは入閣を果たします。
アウンサンスーチーは外務大臣、大統領府大臣、教育大臣、電力エネルギー大臣の4つを兼任していました。しかしミャンマーの憲法では、国会議員と大臣の兼任は禁止されています。そのため自動的に議員は失職しました。
さらに国家顧問のポストも新設。アウンサンスーチーは国家顧問となり、事実上のトップにまでのし上りました。
アウンサンスーチーの対応が問いただされているロヒンギャ問題
「女神」とも称されたアウンサンスーチーですが、ここ数年はロヒンギャ問題に関しての対応が話題になっています。アウンサンスーチーらしからぬ対応といっても過言ではありません。世界中から問題視されているロヒンギャ問題とアウンサンスーチーの対応について調べてみました。
ロヒンギャ問題とは
ロヒンギャとは、ミャンマーを筆頭にサウジアラビア、バングラデシュ、パキスタンなどに多くいるイスラム系の少数民族です。ビルマ語ではなくロヒンギャ語を話すのも特徴。現在、ミャンマーではロヒンギャの存在自体を否定しており、バングラデシュからの不法移民と位置づけています。
以前からこの考えは根強く、政府からは移動の自由は認められていませんでした。そのため満足いく学業も受けられず就職も厳しく制限されています。現状、農業や日雇い以外は難しいとまでいわれています。
アウンサンスーチーが現在の地位に就くまでの活動中、ロヒンギャの人々はアウンサンスーチーを指示していたこともあり、財産の差し押さえや身柄を拘束された過去もあります。100万人ものロヒンギャが住んでいたミャンマーですが、迫害により半分以上の人が国外へ逃れ難民となっています。
アウンサンスーチーの対応
ロヒンギャ問題は何十年も前から起こっていたことですが、より多くの人に知られるようになったのはアウンサンスーチーがトップに出てからです。民主化を訴えていたアウンサンスーチーですが、このロヒンギャ問題に関しては見てみぬふりをしています。
その背景にはアウンサンスーチーは政治家であることが関係しています。自らの党や勢力の利益を守ろうとしており、そのためには少数民族も犠牲にしようというたくらみです。このような対応に、ノーベル賞のはく奪を訴える運動が世界中で起こりました。実際にいくつかの賞は取り消されています。
国際司法裁判所はミャンマーを被告とし、ロヒンギャに対する集団虐殺の罪に裁判を起こします。そこに出廷したアウンサンスーチーは「不相応な力を行使したことは認めましたが、国内の司法が裁くことであって諸外国からいわれることではない」と反論。
それ以後は国際的にロヒンギャについて語ることを拒否しています。
世界が注目しているアウンサンスーチー!今後の対応に期待!
語学も堪能、学力もあるアウンサンスーチーは、頭の回転も速い人だと思います。今問題になっているロヒンギャも、彼女の知恵で円満に解決してほしいです。
事実上のトップであるがゆえ、ミャンマー全体のことを考えないといけないアウンサンスーチーには課題も多く残っているでしょう。日本からの経済支援を受けながら、豊かにみなが幸せな国づくりを目指して欲しいと思います。
今後のミャンマーの発展、アウンサンスーチーの動向に注目してみましょう。ミャンマーの有名人『アウンサンスーチー氏』ってどんな人?