ミンガラーバ!ミャンマー星人の林ツイタチです。ミャンマーの魅力を文章や写真で発信しながら生きています。この記事では【ミャンマーを語る上で欠かせない人物・アウン=サン=スーチー】について解説します。
「ミャンマー人でよく聞く名前の『アウン=サン=スーチー』ってどんな人?」
「日本とどんな関係がある人なの?」
これらの声に答えることができる記事になっていること間違いなし!是非最後までお読みください!
3つのキーワードで読み解くアウン=サン=スーチー
ミャンマーの歴史を語る上で外せない人物といえば『アウン=サン=スーチー』氏です。2020年現在ではミャンマーの””国家顧問””として、民主化後事実上の最高指導者として政治の舵を取っています。
ミャンマーに訪緬した経験がない方でも『アウン=サン=スーチー』という名前を聞いたことがある方は多いことでしょう。
この記事では『アウン=サン=スーチー氏』がどのようにミャンマーと関わってきたのかを解説します。旅行前に読んでおくと、ミャンマーの魅力が十二分に楽しめることでしょう!
「建国の父」アウンサン将軍の娘
ミャンマーはかつてイギリスの植民地でした。1824年から1886年まで三次に渡って起こった英緬戦争(イギリスvsミャンマー)によりおよそ半世紀にわたりイギリスの支配下に置かれ、軍により鎖国状態が続きました。
そのミャンマー(旧称ビルマ)を独立に導いたアウン=サン将軍の長女として生まれたのがアウン=サン=スーチー氏です。彼女が2歳の時にアウンサン将軍は暗殺され、その後は長く外国で暮らしました。
世界大学ランキング1位に輝くイギリス『オックスフォード大学』を卒業し英国人と結婚。その後は京都大学で客員研究員として父アウンサン将軍歴史研究を進めるなどして日本語を学びました。
ノーベル平和賞と自宅軟禁
1988年3月31日に母が危篤との知らせを受け、軍が政権を握るビルマに戻ります。
ビルマでは学生を中心に始まった反政府運動が激化しており、アウンサンスーチーは同年8月にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向けて演説を行いました。
アウンサンスーチーは1990年に予定された選挙への参加を目指して、1988年に国民民主連盟(NLD)の結党に参加し、書記長に就任します。全国遊説など積極的な活動を行いますが、1989年7月に自宅軟禁され、NLD書記長を解任されてしまいます。
その後、軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行います。結果はアウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)が大勝。しかし、軍政側は「民主化より国の安全を優先する」と権力の移譲を拒否します。
この軍隊の判断は国際的に激しい非難を招き、信念に基づき行動を続けたアウンサンスーチーはトロルフ・ラフト人権賞、サハロフ賞受賞、1991年にはノーベル平和賞を受賞しました。ノーベル賞賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われたとのことです。
ただし自宅軟禁中のため授賞式には出席できず、受賞演説を行ったのは軍政が民主化に本腰を入れ始めてから21年後の2012年6月16日のことでした。
民主化政党党首、そして国家顧問へ
2012年、国民民主連盟(NLD)の党首に返り咲いたアウン=サン=スーチーは連邦議会補選に臨み、当選。2015年のミャンマー総選挙で再選しましたが””外国人の家族がいる国民は国家元首である大統領に就任できない””と憲法に規定されているため新設された『国家顧問』に就任しました。
アウン=サン=スーチー氏の現在
ミャンマーの現大統領・ティンチョー率いる新政権にアウンサンスーチーが入閣して4年が経ちました。発足時に日本のマスコミは「事実上のアウンサンスーチー政権」と評価していましたが、ロヒンギャ問題の対応などで現在の評判は当初の期待を大きく下回るものです。
ミャンマーでは今年度2020年に総選挙を控えています。NLDとスー・チー氏に対する厳しい見方は強まっており、2015年のような圧勝は難しいとされています。今後のミャンマーの政治はこの総選挙にかかっています。
まとめ
- アウンサン将軍の娘
- 自宅軟禁と平和ノーベル賞受賞
- ミャンマーの国家顧問
上記の3つのキーワードを軸にミャンマーの政治を内側から大きく変えてきた偉人がアウン=サン=スーチー氏です。以上です!