タイの英雄「プミポン前国王」世界中の王族と国民から敬愛され続けた人物の足跡をたどります。

2016年10月13日、70年間タイ国王として在位し、国民から広く愛されたプミポン前国王が崩御されました。88歳でした。

これを受けてプラユット首相は全てのタイ国民に対して30日間喪に服すこと(政府関係機関は1年間)、エンターテイメント系の娯楽を控え、デパートや飲食店などでも音楽をかけないようにすることなどの8つの禁止事項について正式に発表しました。

街ではほとんどの人が黒い服を着たり黒いリボンをつけたりする状況がしばらく続きました。前国王に対する国民の尊敬は大きなものがありますが、なぜプミポン国王はこれほどまでに国民に愛される国王となったのでしょうか?

今回の記事では、プミポン前国王とはどんな人だったのか、その足跡をたどっていきます。

兄王の突然の死により18歳で即位

プミポン国王は1927年にアメリカのマサチューセッツ州で生まれました。ラーマ5世の69番目の子であるソンクラーナカリン王子を父に持ちます。タイでの正式名はプミポン・アドゥンヤデートといいます。

幼少期からスイスで過ごし、スイスではローザンヌ大学に在学していました。プミポンがタイへ帰国した年の翌年である1946年に兄王が突然の事故で亡くなったため、その12時間後にラーマ9世として即位することになります。当時18歳でした。

最初から支持されていたわけではない?

プミポン国王は最初から国民の支持を集めていたわけではありません。タイは立憲君主制をとっているものの、実質的には軍事政権の下に置かれた時期が長く、その状況は現在でも続いています。不安定な政情が続く中で、王室への信頼や愛着も失墜していました。

そんな状況で即位したプミポン国王は国民にとって当初は政治的象徴に過ぎませんでした。プミポン国王は70年にわたるその長い在位期間の中で自らの言葉や行動や人間性によってタイ国民に信頼される王となっていったのです。

国王自ら推し進めた「ロイヤルプロジェクト」

タイの国王は日本の天皇のように国民統合の「象徴」ではなく、「君主」として自ら裁量できる予算を持っています。タイ全土を視察し、貧しい農民の暮らしぶりを目の当たりにされたプミポン国王は、農民が貧困から抜け出し、自立した生活ができるよう支援するプロジェクトを立ち上げられました。

プミポン国王はタイ国内で高品質の農産物や加工品を生産するための研究や普及に尽力されました。またダムや感慨水路の建設なども御自身で指揮を取り、タイ国民の生活改善に大きく貢献されました。このように国民と同じ目線に立って、国民のために尽くされるお姿が国民に広く愛されるようになった理由であることは間違いありません。

一言で政治の迷走を正した国王の力

政権側と反政権側の衝突は、タイでは過去に何度も繰り返されてきましたが、最終的に軍事クーデターが起きて現在でも軍事政権が続いています。1992年に起こった「暗黒の5月事件」では政府と反政府勢力がぶつかり流血の事態に発展しました。

事態を憂えたプミポン国王は双方のリーダーを玉座の前に正座させ、「そんなことでタイ国民のためになると思うか。双方ともいい加減にせよ」と一喝し、騒動を一夜にして沈静化させたというエピソードがあります。この出来事は国王が政治の迷走を正した象徴的な出来事としてタイ人の記憶に残っています。そのためタイ国民の間には政治的に混乱した場合でも最終的には国王が何とかしてくれるという雰囲気があります。

日本の皇室との関係

プミポン国王は日本の皇室とも深い交流を続けており、カメラや車は日本製のものを好んでいました。日本の前天皇陛下(現上皇)がまだ皇太子明仁親王であった時、プミポン国王から、タイでの養殖に適した魚についての相談を受け、魚の研究者でもあった明仁親王はティラピアという魚を勧められました。その魚の養殖がタイで成功し、今ではタイの屋台でよく見かけるタイ国民に人気の魚になったというのも有名なエピソードとして残っています。

またプミポン国王の誕生日である12月5日はタイの父の日と呼ばれる祝日にあたり、日本の天皇陛下の誕生日も同じ12月(23日)なので、こちらもタイでは祝日になります。毎年12月にはプミポン国王と日本の天皇の生誕を祝う会がバンコクの日本大使館で催されていました。

その他のエピソード

真面目な人柄であったプミポン国王は写真やジャズを好むなど多趣味であった一方、非常に質素な生活をされたことでも知られています。その一例としてプミポン国王は一足の靴を修理してずっと履いているなど物を大切にされる方でした。

また若いころから自身で車を運転し、地方を回っていたといいます。それは自分の目で見て回らなければ国民がどんなことで困っているのかその本当の事情が分からないと考えられていたためです。

ときには農民と同じ目線になるように座り、具合の悪い老人を自分の車に乗せるなど、国民を思い寄り添う生活を実践しておられました。語学も堪能であり、英語やフランス語など様々な言語を流暢に話しておられました。

まとめ

その生涯を通して国民の目線に立って自分の力で貧困の現状を把握・改善しようと努められたプミポン国王。その影響力は時に国内政治の迷走を正したりもしました。プミポン国王が亡くなられたことはタイ国民にとって悲しい出来事ですが、タイの人たちがいつかその悲しみを克服し新たなタイの未来を築いていってくれることを願わずにはいられません。