タイ国王は日本ともつながりの深い王室です。その王室で絶大な支持を集めたのがプミポン国王。2016年に崩御した今も、国民のにならず世界中の人から愛されています。
プミポン国王は、現在のタイの発展を築いた国王といっても過言ではありません。そんなプミポン国王の生い立ちから功績、人気のヒミツをわかりやすく説明します。タイ観光の際に頭の片隅においておくと、観光も楽しくなりますよ。
目次
プミポン国王の誕生から崩御までの生い立ち
プミポン国王という呼び名は通称名で、正式にはラーマ9世。1782年、チャクリー王朝が誕生しその9代目の国王です。88歳で亡くなったプミポン国王の生い立ちを見ていきましょう。
若き年は海外での生活が主流
プミポン国王は1927年、アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジで生まれました。幼少期と青年期は、スイスで過ごした時間がほとんどです。スイスへの思い入れも強く、大学もスイスのローザンヌ大学を卒業しました。
兄の崩御により23歳で在位
1945年、太平洋戦争が終わるとタイへ戻ったプミポン国王。その翌年には、当時の国王だった兄ラーマ3世が銃で撃たれ死亡しました。そのため、23歳の若さで国王に即位します。若い国王はあくまでも政治的象徴で、現在のような絶大な支持を誇っていたわけではありません。のちの1950年、同じく王族出身だったシリキットと結婚します。
シリキット王妃はプミポン国王のいとこにあたります。結婚後は、一度出家したプミポン国王。これはタイ仏教の伝統に基づいたものです。そのためこの時期だけは政治的社会から退いていました。
東南アジア諸国が混乱に陥った時代は静かな政治
太平洋戦争が終結し平和が訪れたように見えたタイ王国ですが、1960年代から近隣の東南アジア諸国は混乱の時代でした。世界的に植民地の勢力が増し、ベトナムやカンボジアもその対象に。
隣国がフランス植民地化されていたため、プミポン国王は表だった政治活動は避けていたといわれています。国内でも軍政と市民運動が活発だったため、両者に向けて毅然な態度を取りつつも譲歩する部分も見せる絶妙な対応をしていたそうです。徐々に信頼を得だしたプミポン国王のおかげで、タイ王家は失墜していた地位を回復していきました。
民主主義体制を作り上げたプミポン国王
民主主義を重んじていたプミポン国王。2006年の選挙では、野党が立候補をボイコットし実質的に選挙が成り立ちませんでした。このときプミポン国王は「このやり方は民主主義ではない」と発言し、選挙のやり直しが行われたそうです。プミポン国王のおかげで、2014年まで民主主義体制が続きました。
即位60年周年には国を挙げての祝賀行事
2006年、プミポン国王の即位60周年を祝う祝賀行事が開催されました。プミポン国王は12月生まれのため、誕生カラーは黄色。このときばかりは、国民も黄色の服を着て盛大に祝ったといわれています。
ちなみに、国王の誕生カラーは一般的には「着てはいけない」という暗黙のルールがあるんです。国王は神様にも匹敵するほど崇拝されているため、国王以外の着用は喜ばしくないといわれています。ただしこのようなお祝い事のときは違います。全身で国王のお祝いするため、国王の誕生カラーを身に付けるのがタイ流なんです。
翌年には対象不良で入院したプミポン国王。退院したときは、国民が退院祝いということで黄色の服で出迎えました。このときは100万人以上もの人が集まったそうです。またこの退院のとき、プミポン国王はピンクのジャケットを着用していました。これ以後、ピンク色は国王の健康と長寿を祝うものとなり、ピンク系の服が流行ったそうです。
在位70年で崩御
2016年、即位70周年がとり行われましたがプミポン国王は病状悪化のため入院中でした。その間、国民はピンクの服を着て病院の周りで無事を祈ったそうです。それから4ヵ月後、10月13日に入院先の病院で崩御されました。
国中が喪に服し、人々は黒い服に身を包みました。政府関係者は1年もの間、喪に服したそうです。また服だけではなく、Webサイト上もモノクロに変更。日本同様、LINEユーザーが多いタイですが、LINEもモノクロに変更になったようです。
崩御から約1年後に国葬がとり行われました。これにより服喪期間は正式に終了。プミポン国王の崩御は、タイ国民にとって心のよりどころを失ったように感じたのではないでしょうか。
プミポン国王が今もタイ国民に愛される理由は功績からもわかる
プミポン国王は、慈悲深い国王としても知られています。数々の功績を知ると、タイ国民から現在も愛されている理由がわかりますよ。
国民に寄り添った「王室プロジェクト」
プミポン国王は地方の活性化を図るため「王室プロジェクト」というプログラムを開始しました。農業が盛んなタイのために、土地改革運動をプミポン国王自らが指導。王室が持っている所有地を農業のために提供したり、農村開発を打ち出します。
また地方視察にも力を入れていたプミポン国王は、シリキット王妃と一緒に精力的に巡回していました。たとえ雨の日でもぬかるみで足元が悪くても足を運び、国民の声に耳を傾けていたそうです。国民に近い距離を取り続けたプミポン国王は、次第に人気を集めていったわけです。
慈悲深さを象徴する出来事!プミポン国王の言葉でクーデターを沈静
プミポン国王は、平等な立場で物事を見ていた国王といえます。数々のエピソードが残っていますが、それをよく合わらしている事件がいくつかあります。
一つ目は「暗黒の5月事件」と呼ばれたもの。タイ国軍率いるスチンダー首相と民主化運動を指揮していたチャムロンが対決し、タイ政府の武力弾圧がありました。流血事件にまで発展。プミポン国王はことの重大さに驚き、二人を呼び寄せ叱りつけたそうです。「タイ国民のためになると思うのか?いい加減にせよ」と。この言葉で騒乱は沈静しました。
二つ目は、2003年に起きた「プノンペン・タイ大使館焼き討ち時間」です。カンボジアとの間に小さないざこざが起こり、バンコクにあるカンボジア大使館に500人程度の人が押し寄せました。このときもプミポン国王は国民に対し「悪党の言葉に惑わされてはいけない」と訴えます。このおかげで大使館に押し寄せた国民も解散しました。
三つ目は日本にも関わりのある1970年代に起きた「贅沢品不買運動」学生運動の呼びかけで、日本製品の不買運動が起こりました。学生の行き過ぎた主張を静めるべくプミポン国王が発した言葉はこうです。「デモ運動で使っているスピーカーは日本製、その警備にあたっているパトカーは日本車を使っている」的を射た言葉で、学生の矛盾を問いただし不買運動は静まりました。
どの発言も騒動を沈静化させるためですが、納得するものばかりですよね。騒動を起こした側も、プミポン国王の言葉に太刀打ちできなかったと思います。
プミポン国王は日本好き?日本製品をこよなく愛する国王
タイ王国と日本皇室は深い友情でつながっています。プミポン国王の即位60周年の祝賀後に開かれた晩餐会では、当時の両陛下だけを招いたことは有名な話です。タイにとって経済的にも重要な国となった日本ですが、プミポン国王は日本製品をこよなく愛していたそうです。
たとえば、王宮内の移動用に使っていた車はホンダ車。ホンダのアコードを3代にわたり使っていました。また写真も好きなプミポン国王の愛用品はキャノンの一眼レフ。ハイキング用に履いていたスニーカーはオニツカタイガーなんです。
このオニツカタイガーは、プミポン国王が履いているということで、タイ国民の間で人気ブランドにまで発展しました。日本企業も多く進出しているタイですが、もしかするとプミポン国王のおかげで日本製品が有名になったのかもしれないですね。
崩御した今も世界と国民から愛されるプミポン国王
プミポン国王は、王室という枠から出て国民に寄り添った人情あふれる人です。タイ王国の発展にも力を入れ、国民が豊かになるよう自ら動いている点も共感出来ますよね。
プミポン国王の人気のヒミツは功績からもわかってもらえたと思います。このようなトップが増えると、世界中が平和な時代を迎えられそうですね。