サワディカー!バンコク在住の愛優です。
タイの首都バンコクから少し離れた街「カンチャナブリ」ミャンマーと国境を接している場所には遠く離れた日本との繋がりがあるのをご存知でしょうか。
じつはこのカンチャナブリを走る鉄道「泰緬鉄道」は第二次世界大戦中に日本軍が建設したものなのです。
この泰緬鉄道に関する歴史は「戦場にかける橋」という映画にもなっており、崖すれすれを走る様子を観に、日本人だけでなく世界から観光客が訪れます。
そこで今回はこの泰緬鉄道の歴史についてご紹介していきます。
目次
「戦場にかける橋」とは?どんな映画??
この泰緬鉄道の建設現場を舞台にした「戦場をかける橋」という映画。
元はフランスの小説家である「ピエール・ブール」が実際に体験したことを下に書いた著書「戦場をかける橋」を脚色し、1957年にイギリスとアメリカの共同製作でつくられた映画です。第30回アカデミー賞を受賞しました。
舞台となったのは1943年、第二次世界大戦中のタイ。ビルマ(現在のミャンマー)に物資を届けたい日本軍はタイから物資を送るために鉄道を整備することを計画します。
そこでその鉄道の建設に駆り出されたのが捕虜収容所に収容されていたイギリス軍捕虜でした。
物資を輸送するために一刻も早く鉄道を完成させたい日本がイギリス軍を動員したのがクウェー川での鉄橋の建設でした。
強制的に建設に動員しようとする日本軍と、それに抗うイギリス軍、さらには橋の建設を阻止しようとするイギリス本国の対立を描いています。
泰緬鉄道の建設について
日本軍のビルマへの物資輸送のために建設された泰緬鉄道は1942年に建設が始まりました。
輸送のためにとにかく早く線路を完成させたいということから、ミャンマー側、タイ側から同時進行で建設が行われました。
映画で描かれるのは主にイギリス軍捕虜に関する描写なのですが、実際の泰緬鉄道の建設ではイギリス軍捕虜だけでなく、現地の捕虜も多く動員されていました。
建設現場はかなり過酷で、病気や怪我でとても多くの方が建設中になくなりました。その亡くなった方の多さは「枕木一本、死者一人」と言われるほどでした。
そのためカンチャナブリには、連合軍捕虜の共同墓地や戦争博物館といった施設が建設されています。
泰緬鉄道が完成した後もその輸送路を絶とうと空爆攻撃が行われ、その路線は作っては壊されを繰り返すこととなります。
泰緬鉄道の代名詞的存在のクウェー橋もその例外ではなく、第二次世界大戦中の攻撃で一度爆撃を受けています。
現在の泰緬鉄道
現在はミャンマーまで続く鉄道の大半は廃線になっており、泰麺鉄道でミャンマーまで行くことはできません。
しかし、戦場にかける橋の舞台になったクウェー橋や、最も建設が難航したと言われている崖に沿って線路が走っている部分は現在も鉄道が走っており、観光することができます。
クウェー橋には爆撃によって一度壊れた部分の名残が残っており、爆撃で壊れた部分は橋の一部分だけ形が違っています。
また、現在残っている部分に当時の線路はほとんど残っていません。現在は列車が揺れないようにと新しい線路、枕木が使用されています。
ですが、泰緬鉄道の景色として有名な崖に沿って走る部分は当時の面影を残し、スリル満点な景色を楽しむことができます。
まとめ
今回は泰緬鉄道の歴史についてご紹介してきました。
何も知らずに行ってもツアーであればガイドさんが歴史や変遷について詳しく話してくれますが、事前にそれらについて知っておくことで、より深くその場所や歴史について知ることができます。
ぜひカンチャナブリに行く前に歴史背景やこの場所について知ったり、映画を観たり…予習をして出かけてくださいね。