フィリピンのセブ島に行ったことがある方は「ラプラプ」という名前を聞いたことがあるかもしれません。「ラプラプ」とは16世紀フィリピン・マクタン島の王の名前で現在までフィリピンの英雄として慕われ続けている人物です。今回の記事ではそんな「ラプラプ王」の人物像と歴史について迫っていきます。フィリピン好きな方は是非チェックしてみてください!
ヨーロッパ諸国の海への進出~大航海時代について
ラプラプ王がマクタン島を治めていた16世紀初頭、世界は大航海時代を迎えていました。この時代、ヨーロッパのカトリック教会は国内で新たに起こったプロテスタント勢力に対抗するために海外へと活路を見出しました。目的は布教活動でした。スペイン国王の命を受けたマゼランも、宣教師を船に乗せて航海をしていました。
マゼランと言えば世界一周という単語が思い浮かぶ方も多いかもしれませんが、実はマゼラン自身は航海の途中で亡くなっています。なぜマゼランは命を落としたのか?彼の前に立ちはだかったのがフィリピンのマクタン島の王、ラプラプでした。
大航海時代のフィリピン
当時のフィリピンは群島国家であり、今のような1つの国家としては存在していませんでした。フィリピン諸島の島々にはそれぞれに統治する王が存在しており、特に干渉しあうこともなく、ゆるやかな物々交換により生活を成り立たせていました。1380年ごろより現在のマレーシア、インドネシア方面からイスラム教が伝わり、フィリピンで広く信仰されるようになりました。そのためラプラプ王は、もともとはイスラム教徒だったようです。
そんな時にマゼランがキリスト教を布教するためにフィリピンを訪れました。当時ヨーロッパ列強国の軍事力を恐れていたフィリピン諸島の王たちは、マゼランの強引な布教に対して抵抗することなく改宗を選び、フィリピンにはキリスト教が広まっていきました。しかしラプラプ王だけは違いました。「私が屈するのは同胞だけである」といった強固な意志を持って、マゼランの要求を拒んだのです。怒ったマゼランは武力で服従させようとラプラプ王に決闘を申し込みました。
有名な「マクタン島の戦い」
戦いの申し入れを受けたラプラプ王は綿密な情報収集と周到な計画の上で、決闘の場をマクタン島の遠浅の海岸に指定しました。1521年4月27日、指定された海岸に出向いたマゼランは遠浅な地形のため、艦隊では上陸できないことに気づきました。艦隊に装備していた大砲の射程距離も陸地までは届かなかったため、マゼラン一行は仕方なく船から降りて上陸することにしました。
これがラプラプ王の狙いでした。マゼランよりもマクタン島の地形に詳しいラプラプは地上での白兵戦ならば、自分たちが有利に戦いを進められることがわかっていたのです。マゼラン軍は重厚な鎧や剣を身にまとい、半ばラプラプを侮っているところがありました。この重たい装備のために、海では思うように動けません。また一説によるとマゼラン軍の49名に対してラプラプ軍は1500人で迎え撃ったと言われています。
次第に、マゼラン軍は無防備な足を攻められ防戦一方になり、大将であったマゼランもこの戦いで命を落としました。こうして「マクタン島の戦い」はラプラプ王の勝利で幕を閉じました。未知なる海を突き進んだマゼランの夢は生き残った船員が引き継ぎ、後に世界一周を成し遂げたのは有名な話です。
頭を使ったラプラプ王
マクタン島の戦いでマゼランを破ったラプラプは東南アジアの人としては初めてヨーロッパ人の侵略に打ち勝った人物とされ、今なおフィリピンの英雄として尊敬を集めています。武力が自分たちよりはるかに上であると聞けば、普通なら震え上がって抵抗しようとは考えないでしょう。
ラプラプのすごい所は、一見不利に見える状況の中で頭を使い、どうすれば自分たちが勝てるのかを見出し実行したことにあります。武装力が上か下か、勝算があるかないか、だけではなく、どう勝つか、を考えることが戦いにおいては重要なのですね。
まとめ
マクタン島の戦いのあった場所には「マクタンシュライン」としてラプラプ王の銅像が建てられており、市民の憩いの場となっています。またラプラプ市というマクタン島内の都市があったり、フィリピンの高級魚には「ラプラプ」という名前がつけられていたりします。セブを訪れる機会があったら「マクタンシュライン」で当時の戦いの様子を思い浮かべながら、フィリピンの歴史を感じてみるのもいいのではないでしょうか?
マクタンシュライン