フィリピン国民の英雄「ホセ・リサール」フィリピン独立の最大の功労者とも言われる人物と歴史背景をご紹介します。

フィリピン国民の英雄「ホセ・リサール」フィリピン独立の最大の功労者

長きにわたってスペインの植民地支配を受けていたフィリピン。その支配は1565年から1898年までの約350年間続きました。19世紀になると独立運動が盛んになり、そのフィリピンの独立運動で中心的役割を果たしたフィリピンの国民的英雄がいました。

名をホセ・リサールと言います。革命家と言っても武力を用いず文筆活動によってスペイン支配の問題点を暴露していった人でした。今回の記事では、このホセ・リサールの人物像とフィリピン独立の歴史的背景に迫っていきます。

出典:ウィキペディア「ホセ・リサール」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB

15か国語を操る天才

フィリピン国民の英雄「ホセ・リサール」フィリピン独立の最大の功労者

ホセ・リサールは1861年、スペイン領インドルソン島のカランバで生まれました。父親は中国人とマレー人の混血、母親は日本人とスペイン人の混血でした。小さいころから勉学を得意としていたホセは、8歳の時にはタガログ語(フィリピンの言葉)とスペイン語をマスターしたそうです。9歳でピニヤーン校に入学し初等教育を終えた彼は、現在のアテネ・オ・デ・マニラ大学に16歳で入学して農学や土地測量などを学びました。

また母が目を患うようになるとサント・トマス大学で医学の道を志します。その後はスペインのマドリード大学に留学し彼はそこでも猛勉強しました。その過程で15か国以上の言語をマスターし、数か国の言語を研究したと言います。

フランス・ドイツ留学時代

留学先 フィリピン国民の英雄「ホセ・リサール」フィリピン独立の最大の功労者

その後フランスやドイツへ渡り、ドイツ語で書いた社会学の論文が認められ、ドイツ国籍の取得も可能だったのですが、彼はこれを断りました。1887年にはベルリンで「メリ・メ・タンヘレ」(我に触れるな)という小説を書きました。後に「エル・フィリブステリスモ」(反逆)という小説も出版しますが、両方ともスペイン圧政下で苦しむフィリピン現地民の姿を克明に描いた内容となっています。その年に彼はフィリピンへと帰国します。

この小説「メリ・メ・タンヘレ」はスペインの支配層から反植民地的とみなされ、目をつけられます。身の危険を感じたホセは再びヨーロッパへ留学することになります。

ホセ・リサールと日本との関わり

日本との関わり フィリピン国民の英雄「ホセ・リサール」フィリピン独立の最大の功労者

今回の渡欧は日本とアメリカを経由して行くことにしました。来日したホセ・リサールは「おせいさん」こと臼井勢以子(うすいせいこ)さんという日本人女性と出会います。この2人のロマンスは有名で2か月間の滞在期間の間一緒に歌舞伎を観たり、日光や箱根を訪れたりしたそうです。ホセは日本の文化に好印象を持ったと言われています。

再びヨーロッパへ

再びヨーロッパに渡ったホセ・リサール。バルセロナでスペイン在住のフィリピン人達とともにプロパガンダ運動を展開し、スペイン語の新聞である「ラ・ソリダッド」(団結)を創刊しました。その内容はフィリピン人の言論の自由や法律的な平等が与えられることを訴えるものでした。1891年9月にはベルギーで前述した「反逆」という小説も発表しました。

ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)を結成

ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟) フィリピン国民の英雄「ホセ・リサール」フィリピン独立の最大の功労者

2冊目の本を出版した後、ホセは帰国しようとしましたが、スペインの支配層の人たちに危険人物としてマークされていたため、帰国はできませんでした。それでも母国を愛していた彼は、逮捕されることを知りながら家族や友人の反対を押し切って1892年にフィリピンに帰国しました。帰国後にアンドレス・ボニファシオらとともに「ラ・リガ・フィリピナ」(フィリピン同盟)を結成します。

フィリピン人を協調提携させ、産業・貿易の利益を促進させることを目的とした穏健的な組織でしたが、スペインの支配層はこれを危険視し、ホセ・リサールをミンダナオ島のダピタンに追放しました。流刑生活においてもホセ・リサールは医師や教師として働き、島の地質や動物について研究しています。

ホセ・リサールの最期

処刑 フィリピン国民の英雄「ホセ・リサール」フィリピン独立の最大の功労者

刑期を無事に終えたホセ・リサールは軍医に志願し、キューバで医療活動支援を行っていましたが、このころにフィリピンではアンドレス・ボニファシオが結成した秘密組織カティプナンが独立闘争を始めました。

以前からスペイン統治者からマークされていたホセは関与を疑われ、そしてフィリピンのマニラに送り返され、軍法会議にかけられて、銃殺刑に処されます。35歳の生涯でした。

フィリピンはホセ・リサールの死から3年後の1899年にスペインから独立していますが、その後アメリカの植民地にされたり、第二次世界大戦中には日本に支配されたりといった問題に襲われ、真の独立を果たすのは彼が亡くなってから50年も後のことになりました。

フィリピン人にとってのホセ・リサール

リサール公園 フィリピン国民の英雄「ホセ・リサール」フィリピン独立の最大の功労者

フィリピンのマニラには現在、ホセ・リサールの功績を称えた公園(リサール公園)が整備されており、入口には彼の記念碑が建てられ、24時間衛兵によって守られています。文筆活動による穏健な方法によって革命を進めたホセ・リサール。祖国のために戦った彼の生き様はフィリピンの人達の愛国心に強く訴えその後の独立運動に引き継がれていきました。

まさにフィリピンの英雄であり、独立最大の功労者と言えるでしょう。