世界的にも有名な観光地シェムリアップは、アンコールワット遺跡群の観光拠点としていつも賑わっています。シェムリアップ中心部にはレストランやカフェがたくさんあり、外国人に人気の場所です。
しかし中心部から少し離れると雰囲気はガラッと変わりのどかな景色が広がっています。今でこそ人気の観光スポットとなりましたが、ここに至るまではさまざまな歴史が繰り広げられていました。
シェムリアップが世界に知られるまでの歴史を一緒に見ていきましょう。
幾度も占拠されたシェムリアップの歴史
平和な時が流れているシェムリアップですが、過去には何度も侵略され占拠されていました。各年代に侵略された歴史とともに、シェムリアップの移り変わりを説明します。
8世紀にアンコール朝が誕生
シェムリアップ一帯は、もともとチェンラ王国(真臘)がありました。チェンラ王国の受け継ぎ、802年にジャヤーヴァルマン2世がカンボジアを統一。
アンコール朝が誕生してから首都は何度か変わりましたが、1190年アンコール・トムに落ち着きました。このときの国王がスーリヤヴァルマン2世です。
スーリヤヴァルマン2世は、チャンパ王国やシャム人、モン人と次々と戦い勢力を伸ばしていきます。やがてインドシナ半島の大部分を統治するまでになりました。
また寺院の建設に熱心だったスーリヤヴァルマン2世は、アンコールワットをはじめ次々とヒンドゥー教寺院を建築。この期間がアンコール朝の最盛期です。アンコール朝に建築された寺院が今も残っているのはすごいことですよね。
15世紀には国が衰退しアユタヤ朝が侵略
寺院の建設に精力的だったアンコール朝は、次第に国の力が衰退していきました。そこに目を付けたのがタイを拠点にしていたアユタヤ朝です。アユタヤ朝は、国の力が衰えているカンボジアに侵略しました。やがてアンコール朝は崩落。その後首都は現在と同じプノンペンに移されます。
18世紀に入るとタイとベトナムの侵略され両属体制に
アユタヤ朝に占拠されたシェムリアップ一帯ですが、17世紀にはクメール人による戦いにより一度は取り戻します。しかし、ほどなくして再度タイが侵略。さらにベトナムも侵略し、両国の勢力に属す『両属体制』になりました。
19世紀フランスによる「フランス領インドシナ」で植民地化
19世紀、フランス軍がベトナムを統治しました。同時にカンボジアにあるシェムリアップも直轄植民地として占拠します。ほかにカンボジアで植民地になったのは、バッタンバン州とバンテイメンチェイ州です。シェムリアップ州と合わせると、その広さは20,000㎢にも及びました。
じつはこのエリアは、当時タイが支配していた土地です。フランスはタイからの保護することを条件に保護区に条約へ結びつけました。シェムリアップは、時が変わってもつねにどこかの国に支配されていたんです。
20世紀に入ってもシェムリアップの情勢は不安定
20世紀に入ってもシェムリアップへの侵略は止まりませんでした。のちに恐ろしい政権が誕生し、多くの犠牲者を出しています。
第二次世界大戦中は日本が侵略
1939年、第二次世界大戦が勃発。戦争が始まった当初は日本も東南アジアを次々に侵略し、カンボジアもその1つでした。それまでフランスに統治されていたシェムリアップも、日本の侵略によりフランス軍の武装解除しフランスは撤退します。
この当時、日本軍はインドシナ半島の大半を統治していました。
日本が敗戦すると再びフランスの植民地に
1945年、日本は敗戦すると日本軍はカンボジアから撤退します。しかし、カンボジアは晴れて独立という訳にはいきませんでした。日本が撤退したタイミングを見計らい、フランスが再び支配します。
このフランスの植民地時代は8年も続きました。フランスに占拠されている間に、カンボジア王国が誕生します。
1953年フランスから独立
当時カンボジアの国王だったシハヌーク国王は何とか独立しようと、何度もフランスと構想にのぞみました。努力の甲斐あって、カンボジアは独立に成功します。
平和な時が訪れたのも束の間、隣国ではベトナム戦争が勃発。この戦争により国内情勢も不安定になり、やがてアメリカとベトナムが共産主義を巡りカンボジアに介入してきました。
この事件でカンボジアでは内戦が起こります。シハヌーク国王は追放され、カンボジア王国はクメール共和国として生まれ変わり、内戦は激化していきました。
ポル・ポト政権が誕生し多くの人が被害
カンボジアで忘れてはならない事件『クメール・ルージュ』。その勢力を率いていたのがポル・ポトです。
多くの国民を強制労働させ、さらに殺害まで繰り返していた恐ろしい事件です。このシェムリアップも例外ではありませんでした。当時、処刑所とされていたキリング・フィールドがシェムリアップ郊外に残されています。
この恐ろしい事件ですが、1979年にベトナム軍が侵略しクメール・ルージュに勝利し、生き残った人々は地元へ帰還できました。しかしクメール・ルージュはまだ滅びたわけではありません。アンコールワット周辺に逃げ込み抵抗を続けていたそうです。
シェムリアップの住民は二度とあのような恐ろしい事件にならぬよう、中心部を拠点にバリケードを築きクメール・ルージュからの抵抗を妨げていました。シェムリアップはクメール・ルージュから最後まで攻撃を受けていた場所なんです。
1991年パリ和平協定が締結しカンボジア王国が復活
19ヵ国によって署名されたパリ和平協定。この協定では『カンボジアの復興と再建』『中立性とカンボジアの国民統一』『主権や領土の完全性』などが盛り込まれたものです。
これによりやっとカンボジアは王国が復活し、追放されたシアヌークが再び国王になりました。協定にも宣言されている通り、この時期からアンコールワット遺跡群の復興作業や国の再建に多くの国が支援しています。
シェムリアップの経済も大きく変貌
シェムリアップといえば観光都市と思う方も多いと思いますが、観光都市になったのもここ数年の話です。シェムリアップのおもな収入源は観光業ですがそれだけではありません。
農林水産業が盛んなシェムリアップ
カンボジア全体でも農業や水産業が収入源となっており、シェムリアップも例外ではありません。
シェムリアップの観光地として人気のトレンサップ湖周辺では、稲作と漁業を生活の基盤として生活している方が多くいます。
農家として生計を立てている方は小規模なものが多いため、農業だけでは収入は得られません。合わせて家畜をしている方も珍しくないんです。
世界遺産『アンコールワット遺跡群』で観光業がメインに変化
シェムリアップはアンコールワット遺跡群の観光拠点です。度重なる占拠や戦いにより崩壊した遺跡もありますが、かつてはアンコール朝の栄えた場所。重要な遺跡群が点在するシェムリアップでは、観光業を収入源の一つとされるようになりました。
世界遺産に登録されてからは、外国人観光客も増大。そのため、かつては農業をしていた住民も観光業に乗り換える方もいます。今ではシェムリアップの収入源は観光業がメイン。外国人観光客を目当てにしているため、首都プノンペンよりも治安が良いですが物価は高めです。
アンコールワットの入場料も2017年に改定し、大幅値上げされたのは話題になりました。外国人の観光客なしにシェムリアップの繁栄は外せないのかもしれません。
成長を続けるシェムリアップ!過去の歴史も忘れてはいけない
農村地帯が広がるシェムリアップですが、中心部は刻々と姿を変えています。近代的な建物も増えていますが、フランス統治時代の建物や寺院も至るところにあります。郊外に行けば地雷撤去をしているエリアもあるほどです。
決して裕福な国ではありませんが、さまざまな国の援助とともにこれからも成長し続けるでしょう。
シェムリアップ中心部はとくに賑わっているため過去の歴史を忘れがちです。しかしその背景には暗い過去があったことも思い出してください。
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