1000年の歴史をもつ古都、ハノイ。市内だけでも、歴史的な建築物がたくさんあります。
旅行に行く前に歴史をおさらいして、ハノイの歴史の奥深さを楽しみましょう。10分で読めるハノイの歴史をご紹介。
中国王朝への従属(前3世紀から10世紀)
前214年、秦の始皇帝が遠征軍を派遣し、東シナ海沿岸地方を支配下におきます。ベトナム北部には、南海群がおかれます。
この南海群の知事であった人物が南越国を建て、一時的にベトナムは自立します。しかし、前111年、漢の武帝により南越は滅ぼされ直轄領になります。
7世紀になると、唐がハノイに安南都護府を置いて、統治を行います。これが、ハノイの都市への発展の始まりです。実は、この安南都護府で働いていた日本人がいます。
遣唐使として中国に渡っていた阿倍仲麻呂です。彼は、鑑真と共に日本への帰国を試みますが、航海は失敗、ベトナム中部に漂着した末に安南都護府の総督を務めました。
ベトナム北部は、漢の武帝以来、約1000年もの間、中国王朝からの支配を受けており、中国文化が多く取り入れられています。漢字文化圏に属することとなり、多くの地名が漢字で表記されています。
大越国の独立(11世紀から15世紀)
唐代末期の混乱期を経て、ベトナム人独立の動きが高まります。1009年、李公蘊が李朝を興します。
国号は大越国を用いました。都はハノイ。ベトナム最初の長期王朝です。
李公蘊が遷都を行った際、空へと昇る1匹の黄金の竜の姿が現れたことから、当時はタンロン(昇竜)と呼ばれていました。
世界遺産にもなっているタンロン遺跡は、王城の中枢部にあたります。1802年の阮朝成立まで、タンロンは歴代ベトナム王朝の首都として繁栄しました。
阮朝がフエに遷都した際、ほとんどの建物が解体されてフエへ移築されたため、当初から残る建造物は 「端門」と「竜の階段」しかありませんが、様々な時代の遺跡が残っています。
1070年には文廟が造られ、翌年、中国の官吏登用制度、科挙制度が導入されます。文廟内にある亀の形の石碑には、科挙の合格者の名前が刻まれています。
また、敷地内には、ベトナム国内初の大学である国士監がおかれ、王族・貴族や官僚が学んでいました。
当時は、境内に机を持ち込み、青空教室のような形で講義が行われていたとされています。
ハノイ市内、ホーチミン廟の裏手にある一柱寺は、世継ぎに恵まれなかった李朝の太宗が、蓮華の上に立つ観音菩薩から赤ん坊を手渡される夢を見た後、子供を授かったお礼に建てたといわれています。一本の柱で支えられ、蓮の池に浮かぶ珍しいお寺であり、蓮の花に見立てられています。
その後、陳朝、胡朝が続きますが、元、明の干渉を受け続けます。1414年、明の永楽帝の時代には、王朝が滅び、ベトナムは再び、中国に支配されることになりました。
1428年、レ・ロイ王が反乱を起こし、黎朝を建て、独立が回復します。レ・ロイ王は、湖に棲む亀から授かった剣で明を撃破し、平和になった後、その湖に現れた大きな亀に剣を還したという伝説があります。
それが、ホアンキエム湖、漢字で書くと「還剣湖」です。ホアンキエム湖近くの水上人形劇では、この伝説を基にした演目が講演されています。
黎朝は、南北ベトナムの統一を果たし、15世紀後半には最盛期を迎えます。
内乱と阮朝(16世紀から18世紀)
16世紀になると、有力な将軍が台頭し、長期の内乱の時代に突入します。北部はハノイの鄭氏、南部はフエの阮氏の実権下におかれ、黎朝は南北に分裂した状態となります。阮氏に対して反乱を起こしたタイソン党は、黎朝を滅ぼし、一時ベトナム全土を支配しますが、内紛と指導者の死によって弱体化します。
そんな中、1802年、フランス人ピニョーの援助を得て、阮福暎が阮(グエン)朝を興します。
都はフエ。その後、タンロン(昇竜)は、ハノイ(河内)という地名に改められました。阮朝は清から、越南国としてベトナム統治を認められ、朝貢関係を築きます。
上述のようにタンロン遺跡の重要な建物はフエに移築されましたが、19世紀から20世紀にかけてその跡地にハノイ城を建てられます。
1805年には、城を囲む城壁5つの中で唯一現存する北門が建てられます。タンロン遺跡の敷地外になりますが、訪れる価値はあると思います。
フランスによる保護国化と現代(19世紀以降)
阮朝はフランスとの関係が深く、王朝成立を助けたピニョー以来、フランスはカトリック布教を進めてきました。1858年にフランスはベトナムに出兵、ベトナム南部を占領します。
フランスは、さらに侵攻を進め、1882年にはハノイを占領しました。この時のハノイ城塞への攻撃の跡が、北門に見ることができます。
1887年には、ベトナムは、カンボジアと共にフランス領インドシナに編入され、2年後のラオスの保護国化をもって、植民地支配が完成されます。
フランス領インドシナの首都はハノイに定められ、統治拠点となったハノイ城塞では数多くの建物が取り壊され、一方で数多くのコロニアル建築の建物が建てられます。
フランス支配に抵抗する人たちが入れられたホアロー収容所は1896年に建てられます。このホアロー収容所は、ベトナム戦争前後の1964年から1973年にはアメリカ軍パイロットの収容所としても使われていました。
ハノイには、この頃のフランス統治政府の建物が多く残っています。ホアンキエム湖近くにあるハノイ大教会や、オペラ・ハウスなどもその一つです。
また、食文化にも大きく影響しました。特に一般の人々に浸透したのが、バゲットなどのパン類でしょう。バインミー、ベトナムコーヒー、シュークリームなど、フランスを含めた西洋の食文化を感じる食べ物を見つけることができます。
その後、世界は第二次世界大戦に突入します。フランスが敗北を認めたのち、日本軍が進駐します。
「仏印進駐」と呼ばれています。日本は大東亜共栄圏という理想を掲げ、東アジアと東南アジアへ勢力を広げます。ベトナムは、フランスと日本から二重支配を受けることになりました。
日本の進駐は、日本が第二次世界大戦に敗北する1945年まで続きます。そして、ホーチミン氏が現れ、現在のベトナムへとつながっていきます。
まとめ
いかがでしたでしょうか。4つの時代区分でベトナムの歴史を解説していきました。ハノイ市内の有名な観光地は、2つ目の大越国と関連がある遺跡が多いです。
ハノイ観光をする際、この建物はあの頃の時代と関連があったな、と思い出していただければ幸いです。どうぞ、ベトナムという国を、歴史的な面からも楽しんで見てください。
歴史をよく知る現地ガイドと、ハノイの市内を巡る日本語ツアーもおすすめです。
実際にベトナムで育ってきた人から聞く話を聞くと、また違った観点からも楽しめるかと思います。
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