ベトナム人なら必ず知っている「ホーチミンさん」。立派なひげをたくわえ、ベトナム紙幣にも描かれたこの人物は一体何者なのでしょうか。今回は、ホー=チ=ミンの略歴と人柄をわかりやすく解説します。
ホーチミンさんとは
ホー=チ=ミンはベトナム革命を指導した革命家です。ベトナム建国の父とも呼ばれ、ベトナムの紙幣にも印刷されています。ホーチミンさんの人生は、ベトナムの独立と統一に捧げられていました。
ホー=チ=ミンの略歴 幼少期、青年期は世界各地を巡る旅に
1887年、ベトナムは国土のすべてがフランスの植民地になりました。ホーチミン氏はそれから3年後の1890年にベトナムゲアン省の貧しい家に生まれました。貧乏な生活の中、儒学者の父の影響で、幼少から中国語を習得します。
その後、父がベトナム王朝の「阮朝」の宮廷に勤めることになり、ホーチミン氏も共にフエに移り住みます。フエでは官吏を養成する名門校に通い、フランス語を学びます。
21歳の頃、彼は世界を知りたいと思い、フランスの船に乗組員として乗り込みひとり旅に出ました。自分の祖国と同様に植民地だったアフリカを巡り、その後はニューヨークやロンドンでコックや肉体労働に精を出します。
パリで政治活動を開始
5年にわたった旅の後、パリに住み始めたホーチミン氏はベトナムの独立運動に参加するようになり、独立運動の同士が集まるフランス社会党に入党します。
フランス社会党に在籍中、「ベトナム人民の要求」という請願書を世界に向けて発表し、ホーチミン氏は世界的に注目を集めます。その後、1920年にフランス共産党、1930年に香港でベトナム共産党の設立に尽力します。
ベトナム帰国後の独立運動と建国
1941年、30年ぶりにベトナムへと帰ってきたホーチミン氏は、ついに本格的に独立運動を開始します。この頃、フランスはドイツに負け、同盟国の日本軍がベトナムに進駐していました。ホーチミン氏はベトナム独立のための組織、「ベトナム独立同盟会」を組織し主導します。
第二次世界大戦で枢軸国の敗北が決定的になり、1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾したことにより、ベトナムは事実上無政府状態になります。これを受けてホーチミン氏は翌16日、臨時政府のベトナム民族解放委員会を選出し、全国総蜂起を呼びかけます。
ベトナム各地で蜂起が発生し、ついにホーチミン氏率いるベトナム独立同盟会はベトナム全土の権力を掌握しました。ベトナム民族解放委員会は改組され、ベトナム民主共和国臨時政府として新たに発足しました。
その後、日本の傀儡国家となっていた阮朝・ベトナム帝国は、第二次世界大戦終結の年、8月30日にバオ・ダイ帝が退位したため滅亡しました。これを受け、ホーチミン氏は同年9月2日にベトナム独立宣言を発表、ベトナム民主共和国を建国しました。
南北分断
ところが、フランスはもちろん、アメリカやソ連など連合国側の国々もベトナム民主共和国を正統政府として承認しませんでした。また、ポツダム協定で北緯17度線より北に中国軍、南にイギリス軍が駐留することになり、9月末にはフランスが南部の都市サイゴンの支配権を奪い、南部はフランスの支配下に置かれました。
ホーチミン氏は中国の進駐が長引かないように、フランスを宗主国として再び受け入れることにしましたが、ベトナムの独立を主張するために幾度もフランスと交渉しました。そして、1946年3月にハノイ暫定協定を成立させ、ベトナムの独立を認めさせるため本協定に調印するべくフランスに渡りました。しかし、フランス政府がベトナム南部に新しく親仏政権を樹立したことを知り、ついに交渉は妥結寸前で決裂してしまいます。
インドシナ戦争
1946年12月17日にフランスはベトナム民主共和国軍に攻撃を開始しました。2日後、ホーチミン氏もこの攻撃に抗戦を開始しました。ホーチミン氏率いる民主共和国軍は軍事力では不利でしたが、北部の山岳地帯「ディエンビエンフー」に籠り抗戦を続け、ゲリラ戦によってフランス軍を圧倒します。
この間に、ホーチミン氏は民族統一を優先するため、表向きには解散したことにしていたベトナム共産党組織を復興させ、ベトナム労働党を結成しました。ベトナム労働党と国家の最高指導者となったホーチミン氏は、独裁体制を築くことはなく、第一書記や首相をそれぞれ別の人物に任せ、自身は国家主席として外交問題や国民を集会やラジオ演説を通して励ますなど、ベトナムのために尽力しました。
ベトナム戦争
フランス軍がベトナムから撲滅された後、アメリカを中心とする資本主義国家の後ろ盾を得て、ベトナム南部に新たにベトナム共和国が樹立します。ベトナム共和国の大統領の独裁的な政治姿勢に反対派の抵抗運動が始まり、「南ベトナム解放民族戦線」が結成されます。
これをうけ、ホーチミン氏を主席とするベトナム労働党は「南ベトナム開放民族戦線」に支援を開始します。ベトナム戦争中、ホーチミン氏は国民の心の支えとなり、演説などで国民を奮い立たせ続けました。
ホーチミン氏はベトナム戦争終結に向かっていた1969年の9月2日、心臓発作で亡くなりました。享年79歳でした。ベトナム戦争終戦を迎える前に亡くなられましたが、現在のベトナムの礎を築いた人生でした。
ベトナム国民にとってのホーチミンさん
ベトナムでホーチミンさんの肖像画を探すのはとても簡単です。公共施設はもちろん、レストランや一般家庭のリビングにまで飾られています。驚くほど国民に慕われています。インドシナ戦争からベトナム戦争まで演説によって国民を励まし続けたホーチミンさんは、今でも彼らの心の拠り所となっています。
晩年から今日に至るまで優しい人柄で南北問わず国民の人気を集め、愛されたホーチミンさん。しかし、ベトナム南部に住んでいた反共産主義のベトナム系アメリカ人や移民の中には「共産主義を武力によって強制した」と認識されており、「ホーチミンは殺人者」と呼ぶ人もいるため、ホーチミンさんの評価は今でも二極化されています。
「ホーおじさん」の人柄
ホーチミンさんは慈愛に満ちた人柄で、彼のポケットにはいつも子供たちに配るための飴が入っていたとされています。ひょうひょうとしていながらも優しさを漂わせる、立派なひげをたくわえた気の良いおじさん然としたホーチミンさんを、人々は親しみと尊敬の念を込めて「ホーおじさん」と呼ぶようになりました。
ホーチミンさんの人柄を表すこんなエピソードがあります。ある年の旧正月に、ホーチミンさんは「人々のありのままの生活を知りたい」と思い、自分のボディーガードに「ハノイで一番貧しい家庭を訪問したい」と言いました。ボディーガードは4人暮らしをする母子家庭に案内しました。
そこでは旧正月にもかかわらず夫を亡くした母親が必死に働いていました。ホーチミンさんは驚き、母親に理由を尋ねます。すると、母親は「食べ物がないので、旧正月でも働かなければならない」といいました。心を痛めたホーチミンさんは母親を抱きしめ、一緒に泣きました。そして近所の人に「この母親を助けてあげてほしい」と伝え、仕事や子供の就学の手助けをしてあげたそうです。
また、ホーチミンさんは高潔な人物で、腐敗や汚職、粛清といったことを嫌い、自らも決してそういったことに手を染めることはありませんでした。こうした一面も、今でも多くの国民が尊敬する理由の一つです。
ホーチミンさんが晩年に住んでいた家「ホーチミンの家」が、ハノイ市バディン区にあります。国のトップとは思えないほど質素な家で、ここらかもホーチミンさんの人柄が伺えます。ちなみに、同じ敷地にある1954~1958年頃まで生活していた家の書斎には、昭和天皇から贈られた日本人形が飾られています。こちらの家も実に質素な造りで、家具も随分と少ないです。
ホーチミンさんの思い
ホーチミンが歴史上の他の指導者たちと大きく違うところは、独裁体制を作らなかったことの他に、自らの神格化を嫌っていたことです。そのため、過去の私生活を一切公表しませんでした。しかし、その謎に包まれた私生活が、逆にどこか神聖で神秘的なイメージを定着させてしまいました。
そして彼の亡き後、後継者たちはその意思に反して彼を神格化し、体制の強化に利用してしまったのです。ホーチミンさんは遺言を何度も書き換えていますが、このような事態を予見してか、「葬儀は質素に」「遺体は火葬し、北部、中部、南部の三か所に分けて埋める」という遺言だけは変えることはありませんでした。
しかしその意向は無視され、遺体は保存されてしまいます。後継者たちによって統一されたベトナムは永く官僚主義と賄賂によって、国民を苦しめることになりました。そうして多くの国民たちは国から去っていきました。
1986年から「ドイモイ政策」が始まり、資本主義を導入して政策を大きく刷新することで、近年、ベトナム経済は大きく発展しつつあります。ホーチミンさんは日本の特派員のインタビューに、自分の欠点はたばこを吸いすぎることと、生涯独身だったことだと語ったことがありました。
もしホーチミンさんに子供が居たら、彼の意志を継ぎ、国を守ってくれたかもしれません。インタビューでのホーチミンさんのこの言葉は、自分の意思を継ぐ人物が現れないであろうことを分かっていたための発言だったのでしょう。
ハノイの「ホーチミン廟」には、ホーチミンさんの遺体が保存されています。敷地内に併設された「ホーチミン博物館」や、先述した「ホーチミンの家」にも有料で入ることができます。
午前中の「ホーチミン廟」の公開時間内は、敷地全体が入場規制がかかり、ホーチミン廟に入場した人のみ博物館やホーチミンの家に入れますが、ホーチミン廟の公開時間外はどちらも直接入場できます。ホーチミン廟は厳粛な場なので、私語厳禁で持ち物検査や服装にチェックが入ります。
ホーチミン氏の足跡を辿る日本語ガイドツアー
最後に
生前、ホーチミンさんは演説の最初にきまって「みなさん、お腹いっぱい食べていますか?」と人々に呼びかけていました。ベトナムが植民地だった貧しい時代と、自分の貧しい幼少期を思い、人々が飢えることない幸せな国を作ろうとしていたのでしょう。
ホーチミンさんの気さくで優しい人柄は、これからも多くのベトナム国民に愛されていくことでしょう。ベトナムにホーチミンさんが思い描いた、明るい未来が待っていることを願います。
[jvs_footer]